塾長ブログ

塾長ブログ

blog

「親ガチャ」に愛の手を!?

2021.11.25 塾長ブログ

今年度2回目の“お話”月間が終わろうとしています。

各生徒の意外な面にふれるだけでなく、お母さん方のちょっとした個人史に驚かされたりして、わたしにとってとても刺激あるひと時です。個人面談は1年を通して行われていますので、いつでもお気軽にいらしてください。

 

なお、今回、わたし(塾のPC)からお母さんへの返信メールが未着だった方が数名おられます。ドコモに問い合わせたところ、スマホのメール設定がPCからの返信を受け付けない設定になっているとのことです。Safariから入り、塾のメールアドレスを入力していただけると助かります。欠席のメールに対して、わたしからの返信が届いていない方もご確認ください。

 

各生徒の意外な面と言えば、高校生のA子さんのある行動が抜きん出ています。

本人の承諾の上、ご紹介します。今月第1週の日曜日。A子さんは渋谷で催される展示会に向かいます。たった1人で、それも徒歩で行くというのです。汗をかきつつ、2時間半経過。皇居までたどり着きました。あることに気付きます。財布が見当たらないのです。展示会の入場料は1000円。A子さんはあきらめ、家路に戻ります。もちろん歩いて。距離にして往復約18キロメートル、6時間におよぶ“徒歩旅行”になってしまいました。

わたしはお母さんとの“お話”の日の夜、A子さんに尋ねました。

「ふつう渋谷だと電車を利用するけど。なぜ歩いて?」

「おこづかいが底をついて、電車賃までまわらなかったから。グッズも買いたいし。」

「親に理由を言って頼まなかったの?」

「毎月おこづかいをもらっているし、申し訳ないと思ったから。それに運動にもなるかなって。」

 

渋谷まで徒歩で往復するという発想。親に申し訳なくて電車代をお願いできないという感性。展示会を運動の糧にしてしまう斬新さ。

 

大・大・大好きですね、こういう子。わたしの言葉遣いだと『奇異な子』(最大の誉め言葉です)、一般にはチョー個性的な子というのでしょうか。

 

「平均」と書いて「たいらひとし」と読みます。同質性をひたすら求める日本人にぴったりなネーミングです。口先では個性や多様性の尊重と言いながら、いざとなると同調圧力に屈して、異質なものを排除する傾向がとても顕著になります。

 

ライフネット生命の創業者であり、立命館アジア太平洋大学(APU)の学長である出口治明は、その著書『自分の頭で考える日本の論点』(幻冬舎新書 2020年)のなかで、こんなことを述べています。

 

「いま日本に必要なのは、尖った人たちです。俗な言い方をすれば、『よそ者』『バカ者』『変人』です。彼らこそ、21世紀のダイバーシティそのものです。いまの日本の閉塞感を打ち破る新しい発想は、彼らからしか生まれてこないと僕は思うのです。」

 

A子さんの行動にわたしは心からの大拍手を送ります。「おかげさまで、1日で2kgも瘦せました」とのオチまでいただきました。

話題を変えましょう。

今年の夏頃からなのでしょうか、ネット上で『親ガチャ』なるスラングがはやり出しました。「ガチャ」とは、硬貨を入れ、レバーを回すとフィギャーやアイテムが入ったカプセルが出てくる「ガチャガチャ」のこと。親ガチャとはつまり、どんな親や境遇で生まれてくるかは運まかせであり、親や出自によって子どもの人生が決まってしまう、こんな意味を持った言葉です。

 

かりにわたしが自分の子どもから「親ガチャで外れた」などと嘆かれたら……。一瞬にして不快感丸出しの表情に変わることでしょう。昔の親だったら、「いやなら、この家今すぐ出ていけ!」と一喝して事は終わるのでしょうが、今の親にとってみれば痛烈な一撃となります。

ネットを覗くと。

「私は親ガチャに失敗している。こんな貧乏でみじめな生活は嫌だ。」「とりあえず、整形したい。親ガチャ一番の失敗作だ。」「親の年収が少なかったり、学歴がないと、子どもの学力も低くなるそうだ。親ガチャから外れた自分。」

不運な自分に対し、感情的に親に反抗したり、責め立てることが目的ではなさそうです。現状の自分を嘆きつぶやくことによって、自ら暴走しないよう手なずけている、こんな印象をもちました。

 

もちろん、なかには、虐待を受けたり、ヤングケアラーとして家族の面倒に時間を取られたり、親の借金を返済したり、「苦しみだけの親ガチャ」渦中にある青少年も少なくありません。

たとえが飛躍してしまいますが、眞子さんや圭さんは、まさに親ガチャ問題のど真ん中にいると言えますね。眞子さんは生まれながらにして皇室という出自・宿命を背負わされました。自由も人権も尊重されません。妹の佳子さんはこんなことを口にしたそうです。

「お母さんは結婚するときに納得した上で皇室に入ったのでしょう。でも、私とお姉ちゃんはちがう。生まれた時からここしか知らないのよ。」(朝日新聞9月30日付)

 

まさに狭い鳥かごに強制的に閉じ込められた小鳥。愛する人ができたのに歓迎されず、結婚式も開いてもらえず、逃げるようにして海外に飛び立った眞子さん。天皇家の方々にもまっとうな人権を授けるべき時です。

 

圭さんも親ガチャの失敗そのもの。親の金銭問題だか何だかで、いわれのない激しいバッシングを浴びせかけられる。日本独特の「親子一体思想」とでも呼んだらよいのでしょうか。子どもが何かしでかすと、親の教育がなってないだとか、一方、親がしでかせば、子どもにまで負の影響が及んでくる。

前者の極端な事例が「親による子殺し」かもしれません。エリートの親が、引きこもりの息子を殺してしまうなど、親子一体による親の責任の取り方として悲しくも「定着」しています。

 

また、後者については、「親子無理心中」があげられます。

「心中」という言葉の語源、気になりませんか。調べたところ、本来は「しんちゅう」と読み、「まことの心、まごころ、心を込めた行為」を意味しました。特に、「男女の愛情を守り通すこと」が原意で、後にその愛の物的な証(断髪、切指、爪抜き、恋文等)を指すようになりました。そう、愛の究極の証、おたがいの命、この命を絶つことで永遠の愛を実らせる。ここから心中に「情死」の意味が加えられるようになりました。

 

「親子心中」には、親を擁護したくなる事情が存在することが少なくありません。しかし、どんな事情であれ、親子心中は「親による子殺し」です。わが子であっても殺してよい道理などないはずです。「残された子どもが不憫だから…」、これは親の独断です。独断の背後にあるのが、先にふれた「親子一体思想」。

 

ここから逃れるためには、子どもは親とは別人格であること、その生存権は親であれ決して侵してはならないこと、この2点を強く内面化しておかなければなりません。死刑が国家による殺人であるのと同様に、親子心中も殺人そのものであるとわたしはとらえています。

 

親ガチャからやや脱線してしまいました。

ここで、わたしの気にくわぬ親ガチャの「成功例」をひとつ、それは世襲の国会議員。自ら苦労することなく親の「地盤、看板、カバン」を引き継ぎ、中には権力者風を吹かす威張りくさったオジサン連中。鼻についてしょうがありません。衆議院選挙の当選率は、世襲が80%もあるのに対し、世襲なしでは30%しかありません。何らかの制限をかけるべきです。

最後に、親ガチャ論争を見てきて、特に感じた点を2つほど指摘しておきたいと思います。

 

1つは、親ガチャとは、別の視点から見ると「格差問題」に他なりません。典型例が相対的貧困率です。二人親家庭の貧困率が5.9%に対して、母子世帯は51.4%です。さらに、大学の進学率は、前者が53.7%に対して、母子世帯は23.9%と大差がついています。格差や貧困の問題は、社会保障や社会構造といった政治の責任なのです。社会的な課題を個人の問題にすり替える自己責任論では何の解決も図れません。非難されるべきは個々の親ではなく、まさしく貧困なる政治そのものなのです。

2つは、最も強調したい内容なのですが、かりにもわが子に「親ガチャ失敗」の洗礼を浴びせかけられたら……。ムッとする気持ちを抑えて、子ども目線に立ち、その胸の内を吐露させてください。親に責任を被せたくなるような‘小事件’があったのです。自分の弱さやいたらなさ、友達と比べた時の不遇さにいたたまれず、思わず口をついて出てしまったのです。不安定な自分に苛立ち、親の優しさで抱きしめてもらいたかったのです。親に甘えたかったのです。こうした受容的な理解がまず求められます。

親ガチャをよき機会として、自分を見つめ、自分なりの人生観を深めていってほしいですね。

menu