
墨田区 東向島 学習塾 ウエル学院平野進学教室からのお便りです。
水俣病患者を支え続けた医師、原田正純先生(1934年~2012)。
トライの教材に記された「水俣病遺伝説」に、強い憤りを隠せなかった理由が原田先生の存在でした。
原田先生とはお会いしたことはございません。学生時代に読んだ『水俣病』(岩波新書 1972年)以来、その思想と行動に心酔し続けてまいりました。
まずは、映像や書簡、書物からも十分に推測できることなのですが、人間的な優しさ、気さくさに溢れた方です。患者さんたちは誰一人例外なく、原田先生が大好きでした。気づいてみるといつの間にか、患者さんたちとその家族に囲まれているのです。慈悲の神様そのものでした。
『苦海浄土―わが水俣病』で水俣病の現実を天才的な表現で描ききったあの石牟礼道子さん(当時85歳)は、訃報を知って「……草も木も、みんな泣きよる……私も泣きたくなる。これから先どうして生きてゆこう。」と絶望感に打ちひしがれていました(『苦海浄土』 絶対に読むべき作品です。時間を見つけてご一読ください。文庫本で出ています)。
先生の最大の魅力。それは社会的な弱者・患者に対する絶対的な優しさと献身、そして何よりの笑顔です。イエスのような愛,寛容そのものです。
原田先生は以上のような人格的魅力ばかりか、研究者としての実績も特筆です。
それは「胎盤は毒物を通さない」という当時までの医学的な通説を世界で初めて覆(くつがえ)したのです。母親の胎内で有機水銀に侵されて起こる「胎児性水俣病」を科学的に立証したのです。
手弁当で不知火海一帯を歩いて診察しました。
「病気の一番の専門家は患者さんだ」との信念のもと、一人ひとりの患者さんに寄り添いました。
人生相談あり、お金の相談もあり、いち医者として、人間として献身的に尽くしました。
「胎児性水俣病」の大発見は、こうした地道な患者さん本位の医療行為なしにはあり得なかったと言われています。
原田先生のさらなる魅力を取りあげれば、それは徹底した正義感と科学者としての良心です。
当時の構図はこうです。
1956年、水俣病が正式に発見されますが。しかし、チッソはそれを黙殺。
当時の自民党政権もチッソ側に立ち、病気に苦しむ漁民の生活と命を無視し続けます。
チッソは、政治家だけでなく、役人そして御用学者までを‘雇う’のです。 御用学者の代表は、日本医学会の会頭である東大名誉教授T氏。
Tは水俣病つぶしに走ります。
当時、日本医師会の会頭ににらまれることは、日本医学会全体を敵に回すことに等しかった。様々ないやがらせや脅しに会うが、原田先生はたじろがない。
あえて権力との闘争を選択します。(つづく)
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