塾長ブログ

塾長ブログ

blog

フランクル先生から学ぶ「極限状況」からの脱出

2022.10.17 塾長ブログ

前々回のブログでは、正岡子規のポジティブ・シィンキングについてふれました。
子規の随筆の一部を引用しながら、同時に脳裏に浮かんだのがあの名著、フランクルの『夜と霧』です。

わたしが繰り返し読んだのが1956年に発行された霜山徳爾訳の『夜と霧~ドイツ強制収容所の体験記録~』で、2002年に出版された新訳本(池田香代子訳)とはいくつかの点で異なります。前者は、解説がかなり充実し、また死体などを含めた写真と図版が45点ほど掲載されています。読みやすさにおいては後者にかないませんが、未読の方には、旧本をお薦めします。

わたしの最大の関心は、人は極限状態に置かれたとき、どのような心的な状態に追いやられ、またどのように乗り越えていくのか、という点にあります。子規を念頭に置きながら、『夜と霧』に学びたいと思います。しばらくお付き合いください(引用は新訳から)。

オーストリアの精神科医・フランクル(1905~1997年)は、第二次大戦中、ユダヤ人であったため強制収容所に入れられ、過酷な体験を強いられます。本書は、あの悪名高いアウシュヴィッツに収容され、解放されるまでの6ヶ月間の記録です。

収容所生活、それは強制労働、暴力、拷問、空腹、寒さ、睡眠不足、シラミ、不衛生、悪臭、そして死の恐怖。まさしく絶望の淵、極限状況。形容しきれません。しかし、フランクルは学者らしく冷静な目で収容者たちを観察します。

重労働と極度の疲労は、彼らから人間的な心情と感情を消滅させました。自ら抵抗して自尊心を奮い立たせない限り、自己は瓦解しました。未来を信じることができなかった者は、精神的にも、肉体的にも破綻しました。

しかし一方、ごく少数の人たちだけは、「内面的な勝利」を勝ちとり、極限状況を乗り越えていくのです。興味深いですね。わたしの拙い要約力でうまくお伝えする自信はありませんが、3点にしぼってみました。

1つは、フランクル先生によるLesson 1と名付けておきます。
「生きる目的を見出せず、生きる内実を失い、生きていてもなにもならないと考え、自分が存在することの意味をなくすとともに、がんばりぬく意味も見失った人は痛ましいかぎりだった。……あっというまに崩れていった。」「生きるとはつまり、……生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。」

生に対する絶対的な肯定、および各人に与えられている(神からの?)責務を果たせ、ということですね。「自分を待っている仕事や愛する人間に対する責任を自覚した人間は、生きることから降りられない」と断言しています。  

絶望してはならない、苦しむことからなにかを成し遂げることができる、思考を止めるな、生き抜け!フランクル先生の最初のLessonです。

あの極減状況の中、果たしてどれだけの人間がこの教えを実行できるか、その人となりが試されてきます。わたし自身、フランクル先生の忠実な弟子でいられるか? 正直、Absolutely Yes ! とは言い切れません。

人間はそんなに強くありません。だからこそ、哲学的思考ないしは宗教学的信条をもって理論武装するのです。

ウエル学院の玄関のカッティングシートにはこんな文句が書き込まれています。

『なぜ勉強しなくてはいけないの?』
「それはね、弱い人や困っている人の立場に立って物を考え、行動できる人間になるためなんだよ。そのためには“地頭力”と“消えない学力”が必要になるんだ。ウエル学院はそうした賢くも心優しい生徒を追い求めている塾なんだよ。」

かなり青臭さが漂いますが、哲学をはじめとする学問は、弱き者を救い、そして自らを救うためにその存在理由があるとわたしはとらえています。他力的な生き方が、己の幸福につながる、こんなことをおしゃべりしながら、わたしの毎日の授業が流れていきます。

ウエルの生徒のみんな、清聴ありがとさん。

今日もまたお読みいただきありがとうございました。

9月に出版されたばかりの絵本『橋の上で』(文・湯本香樹実、絵・酒井駒子 河出書房新社)、内容も絵も一級品です。小学生から大人まで、それぞれの感性で鑑賞できます。死がテーマですが、まさしくフランクル先生の「生きる目的」Lesson1そのものです。
前作『くまとやまねこ』(2008年)も合わせてお読みください。

menu