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待つこと、配慮すること

2014.09.17 塾長ブログ

8月の小学生の集中授業では、絵本や短編小説の読み聞かせを毎年行っています。今年は以下の8つの作品を取り挙げ、百字(または二百字)という字数制限を設け、もっとも感じ入ったことを書いてもらいました。

①『へいわってすてきだね』(安里有生)~昨年の沖縄慰霊の日で反響を呼んだ6歳の少年の詩の絵本~
②『ひめゆり』(ひめゆり平和祈念資料館)~ひめゆり学徒の言葉にならぬ戦争体験~
③『おきなわ・メッセージ つるちゃん』(金城明美)~小学2年生のつるちゃんが見た沖縄戦の深い悲しみ~
④『おこりじぞう』(山田勇子)~広島の原爆を扱った名作中の名作絵本~
⑤『ないたあかおに』(浜田廣介)~友情のうるわしさを描くベストセラー絵本~
⑥『えらいぞサーブ』(手島悠介)~宇都宮で起きた盲導犬殺傷事件を受け、盲導犬の活躍を扱った作品を紹介しました~
⑦『歯型』(丘修三)~いじめはいじめでも、障害を持った子に向かう陰湿ないじめ。人間の良心について考えさせる傑作~
⑧『そのこ』(谷川俊太郎)~遠く、ガーナに暮らす子ども達の過酷な生活、児童労働に思いを馳せる~

読み聞かせをしている時の子ども達の瞳の輝き。どこまでも透き通っています。この瞳に出会いたいがため、私の良書の選択には余念がありません。
私は基本的に「読書感想文」は書かせません。そんな時間があれば、他の作品を読ませた方が良い。読書嫌いの一因とさえ考えています。私が書かせるのは百字程度の「印象文」、読書記録程度のものです。「思ったこと、感じたこと、気づいたことなど自由に言葉にしなさい」の一言だけ。百字しか書かせませんので、生徒達は嫌がることなくえんぴつを走らせます。

小学生時代にたくさんの名作と出会えた子は、中学生、高校生になっても何か違う。思考の幅というか、感性の柔軟さというか、やはり読書は子ども達の人格の形成上、財産になります。
朝日小学生新聞紙上での対談で、プレジデントファミリーの編集長と駿台予備校のベテラン講師がこんなやり取りをしていました。

「先日、私どもの雑誌で算数の成績がよい子どもとそうでない子どもに対して、母親の口癖や習慣との相関関係をクロス集計しました。その結果を見ると、算数ができる生徒の母親は決して子どもを急がすことのない『待てる』母親だったのです。」

「『待てる』ということはとても重要なことです。子どもも、待てる子の方が成績は伸びる。予備校の問題演習でも、『自分で考えるから、答えを教えるのは明日にして』という生徒ほど成績は上がっていきます。
きっと、『待てる母親に育てられた子どもは、自然と待つことができる、わかることを焦らない子どもになる』ことができるのでしょうね。」

要するに、親は、子ども自身に強く深く考える余裕を与えなければならない、ものを考えることが好きな子に育てなさい、ということですね。

言うは易く行うは難し、なかなか考える子には育ってくれません。
理由の1つとして、現代はスピードがもてはやされる時代で、メールの「即レス」(もう死語ですか?)とい
う言葉があるようにじっくり考える余裕なく、すぐに解答しなければならない雰囲気があります。手間のかかるSlow FoodよりFast Foodが人気なのです。

2つ目として、ネット時代を挙げておきます。あらゆる情報がパソコン一つで瞬時に手に入ります。自分で考えなくとも、他人が考えてくれます。大学生のレポートに「コピペ」が蔓延する所以です。

3つ目は、親自身が生活に追われ、子育てに精神的にも、時間的にも余裕がもてないという状況があります。子どもに対して「待つ姿勢」がなかなか取れません。口や愚痴が先に出て、子どもとの「ほんわかした時間」が持てないでいます。

4つ目は、親の資質が関わってきます。せっかちは子育てにマイナスですね。子どもより前を歩く親も考えものです。子ども自身に解決させればよいものを、親がしゃしゃり出てしまう。親も、子も成長の機会を失ってしまいます。しかし、資質は変えられるものではありません。ここが難関。自分自身としっかり対話していくしか越えられる道はないですね。

この9月をさかいにして、小中学生の自殺が連鎖してしまいました。東向島2丁目のマンションに住む墨中の1年生男子も、自らの命を絶ちました。大田区の下丸子でも小学6年生の女の子2人が、飛び降り自殺をしています。同級生によると、2人とも中学受験を控え、「疲れた」「勉強が大変で疲れている。よく眠れない」と話していたということです。

国立や私立中学受験を希望する生徒のおよそ8割は、親からの有形無形の強制力が働いていると言われます。自由な時間を奪われ、競争を余儀なくされます。テストの得点によってクラスを振り分けられ、席順も決められる塾もある。「私っていったいなんなんだろう?」と文学的・哲学的な自己問答の出来る賢い生徒ほど、自ら『死』を呼び込んでしまうという可能性も考えられます。心からのご冥福をお祈り申し上げます。

見方によっては、中学受験も親の強制であり、子どもより前を歩く親の典型と言っていいかもしれませんね。私も25年ほど私立中学受験に直接携わっていたので、その辺の事情には明るいです。我が子にとって、我が子の人生にとって良かれと思い込んでいたものが、実は子どもの人格を磨滅させるものであった、こんなことにならないよう私たち親は自らの思考の歪みに自覚的にならなければなりません。

さて、やや古いのですが、母親の働きかけと幼児の発達を扱った研究論文(元北海道大学教授 三宅和夫)をここで御紹介したいと思います。

三宅氏は、母親の働きかけと幼児の発達には何らかの強い因果関係が存在するとの問題意識をもち、次のような実験を試みました。
まず、母親が子どもの相手をして自由に遊べる実験室を設定します。そこに算数の発想を取り入れたおもちゃを用意し、それを使って母子がいかなる行動を展開するか、10分間の録画で観察しました。心理学的な行動評定を作り、子どもの行動や知的な発達度を数値で表しました。つまり、一つの遊びの中から、母子関係と子どもの「能力」をみたわけです。

母親の行動は、「押しつけ的かかわり」と「配慮的かかわり」の二つのタイプに大別されました。「押しつけ的」というのは、例えば、このおもちゃはこうすればよいのよ、と手とり足とり教えこむ関わり方です。他方、「配慮的」というのは、子ども本位に遊ばせ、子どもがつまずいたところではじめて、ちょっとしたアドバイスなりをする関わり方です。

この二つの関わり方と子どものおもちゃへの取り組みにこめられた態度(「独創性」「活動性」「独立性」「熟慮性」)の相互関係を値(係数)で表したのが<表1>です。

「押しつけ的」母親の子どもには、すべての行動においてマイナス点がつけられています。自分で発見する能力(独創性)に欠け、動作が緩慢で(活動性)、深くじっくりと考えず(熟慮性)、自分一人で成し遂げようとしない(独立性)、こんなデータが得られました。

一方、「配慮的」な母親の子どもには、全行動にプラスの点がつけられました。「配慮的なかかわり」というものが、子どもの成長ないしは自立を助ける一つの方法論となるということです。

次に、この実験を子どもの「知的発達」という観点から捉えたのが<表2>です。全体的に、「押しつけ的」な母親の子どもには、やはりマイナス点がつけられ、「配慮的」な母親の子どもにはプラスの点数が与えられています。母親の関わり方が、幼児の知的な発達にまで何らかの影響を与える、ちょっとばかりショッキングな実験データでした。

 

以上二つの結果から、三宅氏は次のような要約をおこなっています。
「すなわち、母親の『押しつけ的かかわり』は幼児の知的発達に望ましくない影響を与え、『配慮的なかかわり』は逆に促進的な影響を与えるということである。また、先の<表1>の結果と合わせて考えれば、母親の『押しつけ的かかわり』は、子どもの『独創性』『活動性』『独立性』『熟慮性』の発達を妨げ、その結果、のちの子どもの知的発達にマイナスの影響が生じるという解釈もできるであろう。」

留意すべき点は、子どもの「行動特徴」や「知的発達」は、「母と子」という二者関係だけから割り出せるものでは決してないということです。その他のもろもろの要素が複合的に絡み合って、一人の人格が形成されます。だから、「お前の教育が悪いから、子どもがああなるのだ」という父親のことばは、科学的にみて正しくありません。

まとめとしては、お母さんだけではなく、その子を取り巻く環境全体が「配慮的」な雰囲気に包まれると同時に、一定の規律や子どもを成長させるための負荷が存在していることが望ましい、ということになるでしょうか。

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