授業の始まり、A君の目が‘充血’しているのに気づきました。
「どうした?元気ないね。」
「飼っていたうさぎが死んじゃった。」
「何年飼っていたの?」
「6年。」
隠しきれなかった大粒の涙。ピュアな輝きをもった宝石の涙でした。
愛する対象の喪失や死は、はかり知れない悲しみと苦しみを伴います。
A君には「死んでしまったうさぎに‘ありがとう’をいって、たくさんの涙を流そう」とだけ伝えました。
愛する対象との別れに際して、自然な流れに心をまかせること、悲哀を素直に味わうこと、自分の気持ちをごまかしたり、押し殺したりしないこと、こうした姿勢が求められてきます。悲しむ仕事(グリーフ・ワーク)を丁寧に、丹念にこなして、悲しむことのできる能力を研ぎ澄ますことによって、より人間らしい生き方が可能になるのではないでしょうか。
コロナ禍にあって子どもたちは実に平坦な生活を強いられています。
すべてに制限がかかり、抑圧的で、刺激に欠ける毎日です。ユーチューブやゲームといった受け身的で教養のかけらも感じられない遊びに多くの時間を奪われている子が、少なくないようです。人との触れ合い、接触も限られていて、人の温かみを感じる場面がありません。言葉以上に心の状態を語るとされる表情、マスクで覆われているため相手の真意がうかがい知れません。人間関係が希薄でアンバランスになりがちです。
長引くコロナ禍で、「ゆううつな気分になることが増えた」という人は、男性で39%、女性で55%を占めています。
大学生のオン・ライン授業でも、8割近くの学生が「孤独を感じる」と答えています。また、「インターネットやスマートフォンの依存症になりやすくなっている。とくに若い人はリスクが大きい」との報告もあります。
わが子の状況をぜひ把握しておいてください。
小中学生への「スマホ丸投げ状態」は極めて危険です。ただし、ゲームやSNSなどがストレスの解消になっていたり、他者とつながることにより孤独感や孤立感を癒しているケースもある、ということに注視しなければなりません。
まずは、お母さん自身の心の安定度を推し量り、家族みんなの心の状態を冷静に見てあげてください。明るい表情で声を掛け合い、励まし合って毎日を過ごしましょう。
あの広告には正直驚かされました。
これぞジャーナリズム精神!と溜飲が下がりました。いまも捨てずに取ってある5月11日付の朝日新聞の16面と17面。
出版社の宝島社が全国紙3紙(朝日・読売・日経)の朝刊に見開き2ページを使って「緊急事態」と銘打った広告を掲載したのです。中央には赤い球体の新型コロナウイルスの絵。それに対抗するは、もんぺ姿で竹やり訓練をする女子生徒たちの凛々しい姿。
キャッチコピーがすばらしい。
「ワクチンもない。クスリもない。タケヤリで戦えというのか。このままじゃ、政治に殺される。私たちは騙されている。この一年は、いったい何だったのか。いつまで自粛すればいいのか。我慢大会は、もう終わりにしてほしい。ごちゃごちゃ言い訳するな。無理を強いるだけで、なにひとつ変わらないではないか。今こそ、怒りの声をあげるべきだ。」
宝島社は反保守・反自民を標榜する出版社でもなければ、リベラル・左派にポジションを置く出版社でもありません。
権力を監視するというまさにジャーナリズムの本道をいくこの広告は、いくら称賛してもしすぎることはありません。
アメリカは最新近代兵器で日本の地上戦に容赦なく突入する一方、女子たちは竹やり訓練やバケツリレーの練習に駆り出される。お国のため、天皇のためと洗脳されながら。当時の極めて非科学的、非現実的な対応策に多くの国民が犠牲になった。まさしく政治の犠牲になったのです。政治に殺されたのです。
アンガー・マネッジメント(怒りの制御訓練)なる心理療法がもてはやされている今日ですが、ある種の怒りは発展的に解消することができます。それは正義のための怒り。怒りを情熱に昇華させ、人間をより理性的な段階まで引き上げる。“情熱が理性を鋭くさせる”とは哲人の言葉。いまや私たち日本人は、正義の怒りを発動し、理性の力をフル稼働させ、悪政を改めさせなければなりませんね。
テニスの錦織選手や楽天の三木谷氏が、オリンピック開催中止にいち早く名乗りをあげました。
三木谷氏の言葉は辛辣で、「(開催は)自殺行為だ」、錦織選手も「死者を出してまで開催することではない」と。これだけの知名度のある両氏、勇気ある発言です。こうした著名人による権力への抵抗や自己主張が、ごく当たり前に風土として形成されれば、日本の民主主義は成熟度を増すことでしょう。
宝島社や錦織、三木谷両氏を正義感のある変革の主体とするならば、それを現状の青少年に比して観察すると、残念ながら権力(大人社会)にたてつく主体に巡り合わなくなりました。
「全学連」「番長」「不良」「非行少年」「暴走族」「ヤンキー」「ツッパリ」「とがったやつ」「やんちゃ坊主」等、その評価は別にして、親や大人社会に抵抗し、反抗し、たてつく輩(やから)が見当たりません。
ここ何年も、「先生、うちの子、反抗的で手に負えません。どう接したらよいのでしょうか?」こうした相談は皆無です。青少年を扱う心理学関係の書籍からも「反抗期」というワードが消えてなくなったかのようです。
反抗期の辞書的な定義は以下の通りです。
「反抗期は、12,13歳頃のいわゆる思春期からあらわれる。この時期は自我が急速に成長し、独立した一個の人格が確立されようとする時期であり、精神面での独立・自立欲求が高まってくる。親や年長者に対する反抗だけにとどまらず、社会的な権威、制度、通念など抽象度の高い対象に対しても反抗的な態度が現れる。」
“健全な反抗”として、①親離れ・子離れに至るためのひとつの儀式。 ②子どもの自己形成にとって超えるべき一時期、の2点が挙げられます。かつて、「反抗期なき少年の行く末には、逸脱行動や凶悪犯罪が待ちうけている」などといったゴシップが目立った時期がありました。
しかしこの十数年、「青年期平穏説」なる学説が注目されるようになりました。
すなわち、反抗期が必ずしも青少年の一般的な特徴ではなくなりつつあり、反抗期を自己形成と結び付けて論じなくてもよいのではないか、こうした考え方です。簡単にいえば、反抗期を経験しなくとも、その成長に何ら影響を与えることはないというものです。
企業からのこんな声は平穏説となにがしかの関連性があるのでしょうか。「注意するとひどく落ち込む新人が増えた。」「傷つきやすい新人が多く、対応に苦労している。」「がんばれない、我慢できない若者が目立つ。」
平穏説とは別に、親子の関り方について特におさえておきたいことが2点あります。
1つは、親の支配的な関わりです。
例えば、小学生の子どもをうまく誘導しながら私立中学の勉強(塾通い)をさせる。嫌がる子どもに対しては、これは教育虐待と呼ぶべき強制です。支配的の反意語は、配慮的です。誰がいいだしたのでしょうか、「親」という漢字は「木の上に立って子どもを見守る」と書く。親が地上にまで下りて、子どもを誘導したり洗脳したりしてはいけないのです。親の口の出し過ぎ、手の出し過ぎは、企業が指摘する消極的で、ひ弱な子どもをつくりだすことに直結します。自分を生きていないので、必然的に自己肯定感や自尊感情が沸き立ってきません。お母さんが子どもの前を歩いてはいけませんね。我が子の多少のマイナスも、配慮的にじっと見守るのです。この配慮的のさじ加減が難しい所ですが。
2つは、よくいわれる「友達親子」。
もちろん、親子仲が良いのは歓迎です。問題になるのは、親が子どものラインまで下りてきて、嫌われたくないためなのか、子どもの要求を丸呑みしたり、叱責や反論、対立を回避する親のあり方。子どもの人格形成にとてつもない悪影響を与えてしまいます。ものわかりが良すぎて、子どもから反抗という機会を奪ってしまいます。親が子どもの成長を阻むというまさに最悪の親子関係といえます。
“沈黙は共犯になる。”とはアジア系住民を狙ったヘイトクライムに対するバイデン大統領の言葉。
子育ての目標のひとつは、“批判的な精神をもって、自己主張をきっちりできるようにさせること。
”創作活動やちいさなアピール行動でかまいません。
同調圧力に屈することなく、自分を表現していく積極性と勇気を称えたい。
こうした感性を獲得した子は、親の心配をよそに、たくましく自立的に生きていくことでしょう。
自己肯定感も高く、自ずと学習にも向かいます。
育てましょう、自己主張の力を‼/
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