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「自分をどこかに預けている感じ」⁉

2018.01.27 塾長ブログ

受験シーズン到来。
心配性のお母さんには、今しばらく辛抱の日が続きますが、受験生を持つ保護者にあてた拙稿(「お母さん、明るくほがらかに」中3月謝袋同封)に目を通していただき、しばしリラックスしていただければと思います。

セクハラ市長にパワハラ市長、数日前には暴言市長が登場し、やり玉に上げられていますが、ほれぼれするような立派な市長もいます。名は泉房穂、兵庫県明石市長(54)。私が今もっとも注目している市長です。

 

泉氏は子ども最優先の発想で、公共事業から子育て支援策への予算シフトを強行し、2期目の選挙では大勝した有名市長です。医療費、保育料、施設費などの無料化などとともに、保育所や保育士への補助を厚く行い、結果として人口の増加(夫婦が子連れで転入するようになる)、出生数の回復、市税収の大幅アップ、等々、成果を上げてきました。そればかりか、離婚後の面会交流や養育費の取り決め支援、無国籍児への支援、全小学校区に子ども食堂と里親づくりの組織化など、独自の政策も次々と打ち立てています。

皮肉なものです。安倍政権は子どもの貧困に対して、財界などからの寄付を集うといった愚にもつかない‘しょぼい’政策を立ち上げる一方で、明石市は子どもを核にした街づくりに着手することによって、人が流入し、出生率がアップし、住宅の建設需要が生まれ、地域経済も活性化したのです。どちらの長がよりスマートで血の通った政治を実践しているか、一目瞭然です。

泉市長の教育哲学がすばらしい。「(なぜ子どもを核とした街づくりを?)子どもは『まちの未来』だからです。すべての子どもたちを市民みんなで本気で応援する、そんなまちこそが発展すると思っています。」「(所得制限を付けない無料化については?)所得制限は親を問うていることになります。子どもを親の持ち物のようにとらえ、親の所得によって子どもを勝ち組と負け組に二分するようなものです。…低所得者層だけでなく、中間層…にも恩恵が及ぶように(なりました)」「(政府の子ども政策については?)あまりにもお粗末です。『子どもの貧困』は『子どもへの政治の貧困』と言うべきでしょう。」

ヒューマニズムに基づいた実にシャープな指摘ですね。現政権を担っている政治屋さんたち、耳の穴かっぽじってよく聞きなさい!

本質的には、子ども観の違いなのではないでしょうか。泉市長は、子どもという存在に最大の敬意を払い、その成長と可能性に果てしない期待感を抱いています。同時に教育の可能性についても全幅の信頼を寄せています。

 

一方、現政権の子ども観は、道徳の教科化や教育勅語の採用に見られるように、国が統制すべき対象、これが‘子ども’なのです。『日本の未来』を担う可能性ある存在として子どもを見ていません。日本の未来は、ごくごく一部のエリート(例えば総理を忖度するような官僚連中)と自分たちのような政治家さえいれば成り立つものと認識(錯覚?)しているようです。だからその他大勢の子どもに対しては「親の自己責任で教育費を賄え」と、極論するとこういうことになります。子どもに対する敬意といったものは感じられません。「子どもに冷たい国、日本」、これが現状なのです。

すでに若者たちはこうした政治の貧困を察知しています。いくつかの意識調査を引用します。

①「日本の未来は明るいと思うか」という質問に「思う」と答えた人は26.9%で、前々年より6.3ポイントも減少しています。
②「生きていればいいことがある」に「そう思う」と答えた割合は、20代が最も低く37%。10年前の62%から大幅に減っているのです。
③15~34歳における死因の第1位が自殺の国は、先進7カ国で日本だけです。自殺者数は他の6カ国の平均の2倍にあたります。

若者たちにとって生きづらい世の中になっているということです。夢を抱いてアクティブに生きていけるような社会ではなくなっています。大人社会を見限ったというか、社会に対して期待感がなかなか持てない状況なのです。若者論を語るうえで、第1におさえておきたい点です。

ここで専門家の話にも耳を傾けてみましょう。家庭裁判所の調査官になって37年、非行少年と直接向き合ってきた伊藤由紀夫氏。

「昔に比べて、孤独が深いと感じます。…昔は孤独でも、不良の文化に入れましたが、いまはそんな場所さえ減りました。…昔は反社会的・不良顕示型の少年が多かったのですが、最近は非社会的・対人関係回避型が増え、不登校や引きこもり、自殺念慮が目立ちます。」

孤独に対人関係の回避、青少年全般に見られる現象です。これまで何度となく引いてきた概念、自己肯定感、孤独や対人関係の回避によってますます低下することになります。ひと、特に友人からの評価、承認が自己肯定感を高める核となりますが、この核なるものが欠落してしまうと…。まさにアイデンティティ(自己同一性、主体性)の危機、喪失と言えます。

もうひとり、精神科医で立教大学教授の香山リカ氏の若者分析。

「最近、診察室を訪れる若者の変化を感じている。『つらいんです』。どういう風にですか?と聞いても、『つらいってことです』。…自分の内面を掘り下げ言葉で表現する力が落ちているように思う。大学で学生たちと接していても、『私をどこかに預けている感じがする』という。(これは)自分の弱さと向き合うのはとても苦しいことだから、でしょうね。」

「自分をどこかに預けている感じ」、感心するほど絶妙な表現です。「自分が自分でない」ということなのでしょうが、「預けている」というのがポイントのようです。素の自分は出さず(出せず?)に隠しておいて、例えば、親の前では「良い子」仮面をかぶり、友達の前では円滑な関係性を維持するために「自分で作り上げた」キャラを演じきる。疲れますね。自分を見失いますね。自分自身を問うという内省の機会を失うことにもなりかねません。

こう書いているだけで、息が詰まります。狭く暗い部屋に閉じ込められているようで、生きている心地がしません。みんな苦労して生活しているんだなと同情心を覚えます。

 

つまらぬ経験話なのですが、私の高校、大学、大学院時代で唯一誇れるものがあるとすれば、ずっと日記らしきものを書き続け、自分との対話を怠らなかったことくらいです。“汝、自らを知れ”ではないですが、自分を追い込んできました。ほとんどは自己嫌悪や自己否定の言葉が散りばめられ(高校時代にはまった太宰治の影響もあるのでしょう)、日記なんてものではないのですが、生真面目に人生や自分自身のことを考えていました。そのプロセスの中で得た結論のひとつは、「自分の将来、性格的にも対人関係的にもサラリーマンや公務員には不向きだ。人生、多様な生き方があっていいはずだ」ということです。

生きづらさを感じている学生には、ぜひ伝えたいですね。

まずは自分自身としっかり向き合うこと。長所も短所もひっくるめて、客観的に自分を見つめてみること。そして、そうした自己分析に基づいた生き方、自分らしく生きる道筋を探し求めていく。親の期待とか世間体などいっさい度外視して、自我が発揮できる生き方をデザインしてもらいたい。

 

親も従来型の幸せ方程式(一流大学→一流企業といった学歴・学業重視の考え方)に見切りをつけ、子どもの人間自体的な要求を尊重する、こうした対応が求められてきます。子どもの人生は、子どものもの。親の束縛は禁物ですね。

時間が取れず読めないまま積んである本が60~70冊、その中の1冊の帯にはこう記されています。

「好きなことを仕事にしたら障害じゃなくなった!10歳でアスペルガー症候群と診断。中学校に通えなくなったのをきっかけに、進学しない道を選んだ15歳の『生きる道探し』とは? 学校に行けなくても、できないことが多くても、自分らしく生きていく道はきっとある!」(岩野響『15歳のコーヒー屋さん』~発達障害のぼくが できることから ぼくにしかできないことへ~KADOKAWA 2017年)

 

本人の意志が強く伝わってくるような奇抜な生き方なら、おおいにけっこう。そっと背中を押してあげましょうよ!

3月1日より新学年の授業が始まります。
お知り合いの方がいらっしゃれば、ぜひご紹介くださいますようお願い申し上げます。

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