
墨田区 東向島 学習塾 ウエル学院平野進学教室からのお便りです。
前回からのつづきです。
原田正純先生は公私にわたるたとえようもない実績を打ち立てながら、当時在籍していた熊本大学では教授にはなれず、助教授留まりでした。
どうみても、誰が見ても理不尽極まります。
日本で正義や反権力を貫き通すこと、それには、差別や理不尽な扱いを覚悟しなければならないということです。日本の民主主義の成熟度が問われてきます。
それにしてもチッソは悪辣企業でした。
残酷性と犯罪性にまみれた企業でした。
1956年、正式に水俣病が発見され、その3年後、熊本大学研究班がメチル水銀説を発表します。
しかし、チッソは逃げの「反論」をするのみで何の対策も立てず、行政もまだ動きません。
魚貝類が斃死し、猫や人までが奇病を発し、そして変死する中、チッソも行政も逃げの一手で無視し続けたのです。
しかし、水俣病患者救済の運動が激しくなり、もう逃げられなくなった政府自民党は、1968年になってようやく、水俣病を公害病と認定しました。
何をいまさら、遅すぎる! 怒!
1956年の発見から12年もの間、チッソは水銀をたれ流し続けたのです。
それも自らの犯罪性を認識しながら!
生命に対する冒瀆です。人権無視の行為です。殺人そのものです。
日本の一部の指導者たちの血といってよいのでしょうか、その体質に憤りを隠せません。
歴史にタラ・レバはありませんが、もう少し早く敗戦を宣言していたなら、大空襲、沖縄、広島そして長崎の地獄を見なくても済んだのです。何十万もの生命が犠牲にならずに済んだのです。
同時に、1956年、遅くとも熊本大学がメチル水銀説を発表した1959年に行政が動いてくれていたら、ここまでの被害は避けられたのです。
何故ここまで遅れたのか?
原田先生はやんわりと答えています。
「社会的弱者(患者家庭のほとんどが貧困の漁民)を水俣病は直撃したと言えるのです。そのことがその後の行政や企業の対応と無関係ではなかったと思います。」
歴史を学ぶなかで、わたしには支配層の偽らざる本音が聞こえてきます。
「相手はたかが貧乏人だろ。何人死のうがおかまえ無し。適当にあしらっておけ!」
こういうことです。
家康は「生かさず、殺さず候」と百姓から年貢を取りたてましたが、チッソは人を殺してもなお厚顔ぶら下げ、企業の延命=責任回避を図ったのです。
原田先生はたじろぐはずもありません。
数々の訴訟で患者側の立場に立って証言してきました。
そのたび「被害者側に立ちすぎる」との批判が起こります。
原田先生は一喝します。
「本当の中立は弱い立場に立つこと」
「医者は患者のためにある」
わたしのおそまつな説明など不要です。
先生のお言葉、じっくりかみしめたい。(つづく)
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