小学4年生T君の「できごと作文」から。
「2月11日、2分の1成人式を行いました。ぶたいうらでとてもきんちょうしていました。(中略)お母さんがぼくに書いてくれた手紙を聞いているうちに、『こんなに自分は大事にされているんだなあー』と思いました。(中略)2分の1成人式ができたおかげで、親子の絆がもっと深まったと感じました。これからの10年も、ずっとそばで見守ってほしいと思いました。」
無口で自己表現が決して得意でない4年生の作文なのですが、自分の気持ちが素直に表されていますね。ほのぼのとしたとてもいい作文です。
2分の1成人式は、2012年度版の国語の教科書の中で「十さいを祝おう」という単元で登場し、全国に広まったと言われています。学校教育が「感謝」や「感動」を重視するようになったのも広がりの一因です。
私が冒頭の作文を読んで思い起こしたのは、結婚披露宴での「両親への手紙」です。花嫁が涙ながらに読み上げるあの感謝の手紙文、そしてそれに続く花束贈呈。何度参加させてもらっても、うるうるきますね。前後して、バージンロードを歩む新婦のウエディング姿を見てもうるうる。他人様の娘さんを見てこうなのですから、自分の娘の時はどうなってしまうのでしょうか。想像するだけでもうるうるしてきます。
生徒達の合格の報告。これは安堵と喜びに包まれます。しかし、今年の中3生Mさんには、私に隙(すき)があったのか、うるうるさせられてしまいました。Mさん(以後の内容はすべて本人の承諾を受けています)、大の勉強嫌い、日常の自己管理も苦手。宿題忘れや教材忘れもお手の物。忘れもしない昨年9月のVもぎ(会場テスト)の英語、なんと4点です。ウエル学院の新記録を樹立してくれました。授業中集中できなくて、こっぴどく叱られることたびたび。帰宅させられたり、退塾宣言を受けたり。でもこの子、決してめげないのです。次の日には、「センセイ、コンバンハ!」と何もなかったかのように授業にやってくるのです。それも何とも言えぬ愛くるしい瞳をして。
3月2日、都立高校の合格発表の日。いつもの屈託のない表情はなく、しかし、目に光るものをたたえて、物静かにしかも、お目にかかった事のないようなしおらしさをもって言ってのけるのです。「先生、合格しました。先生がいてくれなければ……、合格なんかできませんでした……。」瞬間、不覚にも涙腺がコントロール不能に陥ってしまいました。やられました……。ひとつ付け加えておきましょう。都立入試の英語では、「予想」に反し、50点近く取ることができ、余裕を持って合格しました。おめでとう!
前に戻って、2分の1成人式について一言。聞くところによると、「卒業式よりも感動的」と語る先生が多くいます。性格が素直でない私は、どうしてもひねくれた見方をしてしまいます。「運動会の○人ピラミッドと同様、2分の1成人式は、他ならぬ“感動の押し売り”ではないの?!」と。学校教育において、保護者を巻き込む“感動劇”などはたして必要なのか。こうした感動劇の裏には負の面は存在しないのか。ありますよね。ピラミッドの練習中の事故(骨折やねんざ)は後を絶たず、中止をせまる動きもあります。2分の1成人式では、「幸せ家族」とか「仲良し親子」が暗黙の前提になっているようで、とても気になるのです。不運にもそうした環境にいない10歳の子にとっては、喜びどころか寂しさだけが残る成人式なのではないでしょうか。ほとんどはお母さんが出席しているようですが(学校によっては、会社を休んで出席するお父さんも結構いるとか)、父子家庭、母子家庭、再婚した夫婦、そして何よりも親から愛情を受けとることのできない子ども、虐待を受けている子ども達は、式のあいだどうしているのでしょうか。孤立感だけが募っているのではないでしょうか。先生方には頭が下がりますが、学校行事とはかくも難しいものです。
さて本題です。やはりあの事件に触れないわけにはいきません。川崎市の中学1年生上村僚太君が惨殺された事件。僚太君の母親へのバッシングについて掘り下げてみたいと思います。
ネット上や一部マスコミにおいて、母親たたきが止みません。顔にあんなあざを作って、何も行動しないのか。深夜外出させるとはどういうことか。母親が我が子を守らなくて誰が守るのか、等々。
40代前半の母親。2度の離婚歴があり、5人の子どもをすべて引き取っています。介護施設で正社員として働き、夜はスナックに勤めているとのこと。母の知人の弁です。「“母親は何をしていたんだ”といった声も世間にはあるようですが、彼女は5人の子供のために働きづめで、僚太くんの他にも小さな子供もいましたし……。お母さんが、何かと生活の頼りにしていた僚太君の祖父母も、おじいさんの体調が思わしくなくなったことで、おばあさんが介護にかかりっきりになっていました」。
この事件を広く社会科学的に見ると、「貧困」という切り口が可能になります。直近のデータから見てみましょう。御存知のように、日本の子どもの貧困率は年々上昇し、16.3%、6人に1人となっています。ひとり親に限ると2人に1人の割合です。ひとり親世帯の貧困率は、先進国の中でルクセンブルクに次いで2番目に高いのです。平均年間就労収入が100万以下のシングルマザーは28.6%、100~200万円未満は35.4%で、収入が200万以下の人が64%を占めています。うち、正規雇用が40%、派遣・パートなどの非正規が53%です。日本の貧困ラインは122万円(2012年)。児童手当や児童扶養手当を含めると、親子2人世帯では、年間約173万円。月額で14万です。この額の中から、家賃、食費、水道光熱費、通信費、交通費、子どもの習い事などを払います。きついですね。シングルマザーの多くは、低賃金ゆえ2つ、3つと仕事を抱え込むことによって長時間労働にさらされているのです。
経済的な貧困は、それにとどまるものではありません。他の面にも負の影響を与えることになります。まず、子どもと一緒にいる時間が一般家庭に比べ限られていますので(時間の貧困)、子どもの確かな発達を妨げる可能性が指摘されています。どうしても放任になりがちです。また、長時間労働により、過労やストレスが親自身の心身をむしばむことになります。近くに相談相手がいなければ、社会的にも孤立し、虐待やネグレクト(育児放棄)につながってしまうこともあります。こうした環境下にいる子どもは、自己肯定感が極めて低く、精神的に不安定で、学力もおぼつかなくなることがデータで示されています。
親子のこうした状況は、自業自得でもなければ、親の自己責任でもありません。日本の旧態依然とした社会の構造的な欠陥なのです。簡単に言えば、ヨーロッパ諸国のように「社会全体で子どもを育てていこう」「女性にやさしい社会を築いていこう」という寛容な哲学や政治思想を無視し続けているのです。子どもの教育費(特に大学の学費!)だけでなく、子どものしつけ・教育もすべて親の自己責任で、一方的に親に押し付けるばかりです。国や政治家はと言えば、ほんの少しばかりの税金を割り振るだけ。まさしく、官僚や政治家自身の貧困なのです。恵まれた地位にある彼らには、弱者に手を差し伸べようとする人間的な優しさは期待できません。お笑い草なのは、こうした連中が『道徳』を教科のひとつに入れようなどとたくらんでいることです。弱きものに手を差し伸べる、これって道徳の基本中の基本ですよね。また、禁止されている企業献金を貰っても、「知りませんでした」「法には触れていません」の一言で責任や罪から逃れる悪徳政治家。法に触れなければ問題なしとする政治家が、道徳を語るな! ですよね。連中は「道徳」の意味がわかっているのでしょうか。あと、言いたくはないのですが、本当に「知らなかった」の? うそついたら針千本飲ませるよ。これぞ道徳でしょう。
さて、僚太君のお母さんのコメントに注目してみましょう。「仕事が忙しかった私に代わって、進んで下の兄弟たちの面倒を見てくれました。」「僚太が学校に行くよりも前に私が出勤しなければならず、また、遅い時間に帰宅するので、僚太が日中、何をしているのか十分に把握することができていませんでした。」「(僚太が)学校に行かない理由を十分な時間をとって話し合うことができませんでした。」「今思えば、僚太は、私や家族に心配や迷惑をかけまいと、必死に平静を装っていたのだと思います。」
毎日が長時間労働の連続です。過労が慢性化しています。こうした状況の中で子どもと向き合い、目をかけ続けるのは物理的に困難です。私がこの母親であったら、と考えたとき、はたして僚太君のことを守りきれたか? 自信を持ってイエスとは断言できません。肉体の慢性疲労は、人から几帳面さや合理的な判断力を奪い取ります。豊かな愛情を注ぎたくとも、心と体が思うように動いてくれません。気力もやがて底をついてしまいます。一体誰がこの母親を責めることができるのでしょうか。確かに、賢明な子どもがいるように、あらゆる点で優秀で聡明な母親がいます。しかし、残念ながら、そうした素養に恵まれないお母さんもいるわけです。なかには、「母性」が発現できずに子育てに向き合いたくても、向き合えない方もいます。
日本の政治思想は『新自由主義』という立ち位置を取ってきました。その核心は、競争と自己責任にあります。自由主義社会だから競争は当然のこと、負ければそれは君の努力不足が原因、自分で責任を負いなさい、こうした競争原理に基づく冷徹なイデオロギーが新自由主義です。弱者は排除され、人が強者と弱者に分断されてしまいます(いわゆる格差社会)。もうそろそろ、こうした弱者排除の思想から脱却しませんか。当人の『努力』不足に非を鳴らす発想から自由になりませんか。努力することが苦手な人、才能や環境に恵まれない人達をも包み込む寛容で包摂的な社会を目指す時ではありませんか。
ひとり親家庭の親や専門家からは「母の愛情だけでは子どもを守れない」など、社会の支援を強く求める声が上がってきています(朝日新聞 3月6日付)。これは非常に重要な視点です。「愛情だけでは子どもは守れない」時代になっていることをおさえておきたい。子どもを守るとは、生命のみならず、子どもの健全な肉体的、精神的発達、加えて知的な発達をも含むものです。
私が忙しく動き回っているお母さん方に求めることは、『自分自身を客観視する』ことを忘れないでほしいということです。現状の自分の心と体をじっくり見つめて下さい。疲労、心労がピークにならないうちに、あらゆる手段を講じて休息に努めて下さい。気後れすることなく他者にSOSを発して下さい。30年以上にわたる私のキャリアから得た経験則のひとつ、それは『母親が自らをいたわることなしには、子どもは育たない』というものです。どうか参考にして下さい。
LINEの危険性についても触れなければならなかったのですが、あらためます。
※参考文献
阿部彩『子どもの貧困Ⅱ』(岩波新書 2014年)
赤石千衣子『ひとり親家庭』(岩波新書 2014年)
山野良一『子どもに貧困をおしつける国・日本』(光文社新書2014年
下野新聞『貧困の中の子ども』(ポプラ新書 2015年)
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