時折、お母さん方との面談で、学校のPTAについて話を振られることがあります。
「半ば強制的に役員にさせられた」「仕事を休んでまで学校に駆り出されることがある」「長く役員をやっているボス的なお母さんとの関係が・・・」等々。
わたしが情緒的な対応に終始していれば、「塾長に話を聞いてもらえた」とのカタルシスに満足を得てお帰りいただけるのかもしれないのですが、「指示なしカウンセリング」を不得手とするわたしは、どうしても「論」や「理」をもって出しゃばってしまうのです。いつまでたっても度量の狭いままです。
わたしの結論を先に。『PTAは解体すべし!』との考えはむかしから変わりありません。
PTAの組織化自体、何ら法律に規定されているわけではありません。言い換えれば、ボランティア同様、任意加入団体に過ぎないのです。よって、加入を義務づけたり、会費を徴収したり、ましてや役員の強制など論外です。人の時間や自由を奪うという点で憲法違反ですし、会費の強制徴収など組織的な詐欺罪にあたります(今春、反PTAを唱えるおもしろい本が出ましたので、興味ある方は一読を。黒川祥子『PTA不要論』新潮新書)。
この塾長、年代的に“闘う世代”の最終走者にあたりますので、年度初めの保護者会(PTA役員の選出)に出席でもしたら、めんどうでしょうね。担任を困らせ、校長との一騎打ちを演ずることになりかねません。ワクワクしませんか!?(しませんね。失礼しました……。)
「これまでずっと続けてきていることだから」といった長いものに巻かれろ式の発想。私は認めません。先月のお便りでふれた「昭和のオッサン」の発想なのです。論拠不在の悪しき慣習に胡坐をかき、弱き者に理不尽な行動を迫るオッサンや組織には、声を上げ、対峙する(退治する)しか手はないのです。
しかし、PTA問題で波風など立てたくないでしょうね。学校管理者や古株お母さんからバッシングでもあったものなら、いづらくなりますし、子どもにもその影響が及ばないとは限りません。さらに、対峙するには相当の‘お勉強’も必要になってきます。ただ、だんまりを決めつけている以上、何ひとつ良い方向には進めないのです。「○○は△△という点でおかしいのではないでしょうか」、はっきりものを言えるお母さんになってもらいたい。子どもにとってこんな教育的効果のある言動はありません。
公立の先生方の多忙さは何度も指摘してきた通りです。学校教育における家庭及び地域との連帯も学校教育学で繰り返し強調され、もちろん承知しています。
しかしだからと言って、学校という現場において「PTAが、お母さん方が自らの貴重な時間を削ってまで○○しなければならない」という必要性も必然性もどこにもありません。わたしが今最も注目している若手憲法学者・木村草太氏(首都大学東京)はこの点について代弁してくれます。「PTA問題への正しい対応は、任意加入を周知徹底させ、非会員へのいじめ対策を行うことです。加入率が下がったとしても、必要なら、学校側がその都度、ボランティアの募集を呼びかければいいのです。それでも人手が足りないのであれば、予算から人を雇うべきです。保護者は保護者として本来、学校側に正当な要求をする権利を持っていますから、団体にならなくてもよいのです。」まったくもって同感です。理路整然としています。
わたしも好き好んで読み聞かせのボラに行ったものです。学習指導のボラがあれば、率先して伺わせていただきます。先生を差し置いて、授業を買って出てもいいくらいです。内容のあるボラであれば、時間のある限りお手伝いさせてもらう覚悟でいます。そうです、時間と内容が問題なのです。学校行事や町内会の仕事まで、なぜ駆り出されるのですか? 意味のない理不尽な仕事が多すぎませんか?できる人が、できる時に参加する、この原則が守られない限り、PTAは即刻解体すべきです。
さて、話題を変えましょう。
これまで何度もふれてきた「大学入試改革」(2020年)と「私立大学の入学定員の厳格化(2016年~)」。後者については、先月、高校部の保護者の皆様には資料を同封しましたが、簡単にさらっておきましょう。大規模大学は入学定員を超えて合格者を取ると(いわゆる水増し合格)、その水増し分に応じて国からの助成金が減額される、という制度変更がありました。結果、大学側は合格者数を絞り込み、入試が極端に難化してしまいました。2015年と2018年の文系の合格率を比べてみますと、GMARCHで31%➡19%、日東駒専で46%➡27%と激減したのです。
まず富裕層の親が動き出します。大学入試の変動にとても敏感な人たちです。小学“お受験”がじわり回復しました。中学受験も、高校受験も大学付属校の志願者が増えました。また、日本の大学を見限って海外の大学を希望する高校生が増えてきました。
親の行動としてわからなくはないですね。先行きが見えない大学入試改革や私大文系の難化、そして内部受験とともに外部受験にも力を入れるようになった大学付属校、その魅力は尽きないということでしょうか。
ここで2つの点について指摘しておきます。
1つは、大学入試改革についての親側の情報不足というかはき違いです。「センター試験」が≪思考力・判断力・表現力≫を問う「共通テスト」に代わるのですが、国公立大学を目指す学生にとってはそれが1次試験になりますので、大きな影響を受けることになります。しかし、私立大学をねらう学生は「共通テスト」を受けなくても大学側が作成する「本試験」で勝負すればいいだけで、大きな影響はありません。確かに「センター試験」で高得点を取ると私大の合格をもらえますが、それはごくごく一部と考えて差し支えありません。要は、「大学入試改革ゆえ付属を希望する」ことには、なんら関連性がみられぬ賢明とは言いがたい選択なのです。
付属ついでに、今月開催した中3の保護者会においても強調しましたが、付属の“不幸”として、希望の学部に入れなかった時のことを考えておきましょう。大学の勉強は抽象度が高まりますので、興味がない学問を4年間やり通すのは‘苦行’です。また、上に系列の大学があるという安心から、他大学受験への勉強がどうしても甘くなる傾向にあります。どっちつかずになりがちです。
2つ目の指摘になりますが、親としての教育に対するスタンスというか価値観が問われてきます。どんな価値観をもとうが、それは各人の自由であり、わたしなどがしゃしゃり出る幕などないのですが、ウエルの保護者の方には考えてほしい。「大学受験の先行きが不透明だから、早い段階で大学のブランドを保険のごとく買っておく」という親のとらえかた。“わが子可愛さ”ゆえの選択ということでわからなくはないですね。
一歩踏み込んでみると、ここには子育ての思想が不在です。その思想の根幹をなすものは当然ながら、わが子への無償の愛です。これは誰もが認めることでしょう。では、無償の愛をどう定義するか。わたしはかねてよりドイツの社会心理学者エーリッヒ・フロムの一節「愛とは愛するものの生命と成長に積極的に関係することなのである」(『愛するということ』紀伊国屋書店)を座右の銘のひとつにしています。
わが子の『成長』という観点に立った時、「保険のごとく買っておく」という選択はいかがなものか。入試改革がどうであろうが、私大が難化しようが、親が先回りして手を打つような行動は慎みたい。「狭き門より入れ」とは新約聖書の一句ですが、どんな変革があろうとも、正々堂々と闘わせればよいのです。あえて厳しい選択をとらせるぐらいの気概を親はもつべきです。これが子どもの『成長』に関わるということです。『愛する』ということです。
大切な視点は、子どもが先にいって伸びるかということなのです。
“先伸びさせる子育て” “かわいい子には楽させるな” こんなキーワードが思い浮かびました。愛着行為とともに、子どもの『成長』という観点を常に心に留めておきたいものです。
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