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受験生、正岡子規から積極思考を学ぼう!

2022.10.14 塾長ブログ

今年は正岡子規(1867~1902年)、没後120年にあたります。
享年34歳の若さでした。

塾に携わるものの「習性」なのでしょう、「生誕○○年」「没後○○年」「創立・遷都・築城…○○年」という言葉には敏感に反応してしまいます。入試でねらわれる可能性があるからです。「入試で」というのが、あまりに了見が狭くて気に入らないのですが、わたしは受験学年以外にも話をもっていきます。

教科書に載る子規の作品を思い出してください。
柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺
赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり

くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やはらかに 春雨のふる
いちはつの 花咲きいでて 我目には 今年ばかりの 春行かんとす

子規は21歳で当時不治の病とされた肺結核にかかり、その後も結核菌によるカリエスで、苦痛のため立つことも座っていることも困難な生活を余儀なくされます。

子規の生まれは道後温泉や松山城で有名な愛媛県松山市です。日本最古の温泉・道後温泉の一角に「子規記念博物館」があります。外堀や内堀を残す湯築城跡に隣接する立派な記念館です。訪問前の予習として、最晩年の随筆集『墨汁一滴』と『病牀六尺』(ともに岩波文庫)に目を通して行きました。

子規のカリエスはどれほどの苦痛であったか。
「この頃のやうに、身動きができなくなっては、精神の煩悶(はんもん)を起して、殆ど毎日気違のやうな苦しみをする。……頭がムシャムシャとなる。……もうこうなると駄目である。絶叫。号泣。ますます絶叫する、ますます号泣する。その苦(くるしみ)その痛(いたみ)何とも形容することができない。むしろ真の狂人となってしまへば、楽であらうと思ふけれどそれも出来ぬ。もし死ぬることが出来ればそれは何よりも望むところである、誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか、誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか。」(『病牀六尺』69頁)

子規は悶絶しながら、命尽きるまで句を詠みつづけました。その数2万はゆうに超えるそうです。

いまで言う積極思考、ポジティブ・シンキングの走りと言ってよいのではないでしょうか。こんな言葉を残しています。

「病気の境涯に処しては、病気を楽しむといふことにならなければ生きて居ても何の面白みもない。」(前掲書124頁)

煩悶するほどの苦、それでも生きて、歌を詠む。

病気を楽しめと自らを、そして読者を鼓舞する。

人間的に精神的にただ「強い」のではなく、真の芸術家の創造力の深遠さから滲み出る「強靭さ」と言ったらよいのでしょうか。わたしの拙い表現力では描写できません。

この一文とよく引き合いに出されるのが『墨汁一滴』の次の文です。

「ガラス玉に金魚を十ばかり入れて机の上に置いてある。余は、痛(いたみ)をこらえながら病床からつくづくと見て居る。痛い事も痛いが綺麗なことも綺麗ぢゃ」(92頁)

わたしはこの一文が大好きです。心のよりどころになる名言ではないでしょうか。

凡夫たるわたしは、耐えがたい痛みにすべてを絡め取られ、愛する人も、自然美も、芸術も、そして未来をも投げ出し、喪失し、ついには自己放棄と破綻に向かう。

子規はそうした凡夫の破綻を強く戒めているかのようです。

病苦に煩悶することと審美の心は、まったく別物で、双方は時を同じくして共存できる。人間らしい感情が苦しみの感情に絡めとられないよう注意しなさい。子規の声が聞こえてきます。

苦痛や、不安や、寂しさなど、そう簡単にコントロールできるものではありません。払拭などできるはずもありません。ならば、苦痛を抱えたまま、不安を抱えたまま、寂しさを抱えたまま、そのありのままの心の状態で、やるべきことに専心すればよいのではないでしょうか。

前回のブログ『「やる気がでないとき」の対処法』において、「やる気が出ないという状態で構わないから、とりあえず作業に取り掛かりなさい」と書きました。自分の「気」や「負の感情」は、いったんは引き出しにしまって、「いまこの時の行動」に集中したいものです。その時点に抱く感情よりも、「行動優先」の発想です。

「感情がどうであれ、からだを動かせ!」
いかがでしょうか。もちろん、からだが動かないようであれば、いますぐ病院です。病院へ行く、これも行動優先の発想です。

無理をなさらずに。

本日もお読みいただきありがとうございます。

松山、いい所でした。
手頃で清潔な飲食店がずらっと並び、太って帰ってきました。
鯛めしに伊予牛に、新鮮なミカンジュース。
道後温泉、道後公園、松山城に坂の上の雲ミュージアムは外せません。

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