「令和フィーバー」なるものには、いいかげんうんざりしました。
新聞の号外が奪い合いになったり、商品名や会社名を「○○令和」と急遽変えてみたり、万葉集関連の本がバカ売れしたり、令和発祥の無人神社に人が押し寄せたり……。
この騒ぎに水を差すようで恐縮しますが、ひと言、フィーバーにうつつを抜かす邪気なき日本人やマスコミの能天気さには言葉を失います。危機感さえ覚えます。のんきで軽薄なようすを能天気(脳天気)と言いますが、より正確には、「歴史に対する無知と無関心」とわたしは見ています。
「元号」や「天皇制」の歴史的な意味や侵略戦争に利用されてきたという厳然たる事実、多くの日本人が学んでいない。また、「元号」とは、皇帝が来るべく時代を支配するという思想そのものであることにもまったくもって無頓着。
歴史学に則った日本史学習を積み上げていったとき、やはり「元号」についてはノン!と拒否せざるを得なくなります。学習や真理の追求には「責任」が伴ってきます。それゆえわたしは「元号」はいっさい使いません。役所関連の書類でも月日を記入する際、「平成〇年○月○日」とあると、わざわざ平成を二重線で消して2019年と訂正することがあります。
大学・大学院で社会科学の研究をしてきたこと、戦前、「国家神道=天皇教」に様々な弾圧と迫害を受け続けたキリスト教の大学で学んだことなどが影響しているのでしょう。実につまらないことにこだわっていると思われるでしょうが、譲れないのです。
ついでですが、万葉集についても「初の国書」などと言ってあの総理が自らの手柄のように礼賛していますが、これもまた軍国主義に利用されてきたという歴史的事実を隠蔽しています。「我が国の歴史を尊び」と力説する総理自身が、自国の歴史に無知(無視?!)なのですから、なんとも滑稽です。
元号はこのくらいにして、今年の東大入学式の祝辞にふれてみたいと思います。
マスコミでも取りあげられているそうですが、ジェンダー(女性学)の先駆者、東大名誉教授の上野千鶴子氏が胸のすくような祝辞をとどろかせました。
「東京大学は変化と多様性に拓かれた大学です」と指摘する一方で、「大学に入る時点ですでに隠れた性差別が始まっています。社会に出ればもっとあからさまな性差別が横行しています。東京大学もまた、残念ながらその例のひとつです」「助教の女性比率は18.2、准教授で11.6、教授職で7.8%と低下しています。(略)歴代総長には女性はいません」と、東大関係、文科省関係のお偉いさんが多数列席し、全国に放映される入学式という場で喝破したのです。
入学式という厳粛な雰囲気の中、「性差別」という言葉に違和感を持たれた方が多くいたと想像されます。しかし、どのような場面であっても、自らの研究対象(性差別)の客観的データをあぶりだし、世間に知らしめ、徹底的に批判をする。これこそが前述した研究者としての責任であり、責務なのです。東大の入学式であろうと、お偉いさんがいようと、地位を追われようと、譲れないものは決して譲らない。これが学者としての矜持です。現政権にすり寄る御用学者らに、上野氏の爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。
こうも言っています。
「東大生ひとりあたりにかかる国費負担は年間500万円と言われています。」
「がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったことを忘れないようにしてください。」
「あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支えあって生きてください。」
「フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。」
年間500万円もの血税が学費として投下されているという現実を直視させています。大切なことですね。選挙権を付与された大学生、日常の経済的側面についても自覚させなければいけません。
「あなたの努力の成果ではなく」とのフレーズ。
新入生たちはどう受け留めたのでしょうか。自分の努力がかなってここまで来た、という自負心の塊のようなフレッシュマンにとっては、さぞかし不愉快であったろうし、カチンときたはずです。
実はこのフレーズ、教育社会学という学問分野ではすでに常識となっていて、根拠となるデータもそろっています。
少し立ち止まって説明を試みます。
データが明らかにしているのは、「努力」は個人(子ども)の自由意志や意欲に導かれる確率は低く、子どもを取り巻く社会的な背景や家庭環境の影響を強く受けるということです。語弊をおそれずに換言すれば、“子どもの勉強に対する努力や意欲は、環境によってつくられる”ということになります。
「環境」で特に重要視されるのが、①親の年収 ②母親の学歴 / 知性 ③家庭の文化資本や文化水準、この3点です。耳に痛いことを書いてしまい恐縮至極ですが、あまり気にすることはありませんので。
わたしがこの際強調しておきたいのは、1つには、『子どもが努力しないのは、子ども本人の問題ではなく、環境要因が不十分であった』という認識です。お母さん、今後、「うちの子はやる気がなくて……」という愚痴は禁句です。やる気のない子にしてしまったのです。能力のあるなしに関わらず、日々の勉強を含めた学校的なものに順応できない子がいます。本人の興味、関心の問題ですから、子どもに非はありません。
そう言えば、上野千鶴子氏がかつてこんなことを述べていました。
「私は今の教育に危機感を抱いています。(中略)偏差値競争の勝者も敗者もどちらも幸せにしないシステム、子どもたちが一日で一番活動的なプライム・タイムを死んだようにして過ごす場所が学校だとしたら……、教育の一番の被害者は子どもたちにほかなりません。そしてこういう教育のなかから、次世代型の人材が育つはずはありません。」(上野千鶴子『サヨナラ、学校化社会』 太郎次郎社 2002年)
さて、子どもの勉強に対する努力や意欲という点で、強調しておきたい2つめは、とりわけ小学校から中学にかけての『動機づけの誤り』ということです。親や教師の責任が問われてきます。
例えば、遊びたい盛りの小学校時代に、本人の能力や意思を度外視した勉強をさせること。また、親や教師が勉強に対する哲学を持ち合わせず、‘義務的にすべきもの’といった短絡的な動機付けを与えてしまうこと。この点は特に留意してもらいたいと思います。
わたしが言うのも罪つくりなのですが、“いまの勉強はやって当たり前ではなく、やりたくなくて当たり前”だと思いませんか。つまらないことをやみくもに強制させられたり、口うるさく追い込まれれば、いつかは無気力になって当然なのです。だからこそ、親も教師も「勉強とは何ぞや」「何のために学ぶのか」「学ぶ喜びとは」といった哲学を深めていかなければならないのです。いや、その前に、親自身が学ぶ姿勢を常日頃から持ち合わせているかが問われてこなければなりません。子どもにとって一番の「環境要因」です。
上野氏の祝辞に戻ります。
図らずもわたしが常に訴えている社会的な弱者に対する視線と連帯ということが、強調されました。ウエル学院入口のカッティング・シートには図々しくもこんな言葉がかざられています。「『なぜ勉強しなくてはいけないの?』 それはね、弱い人や困っている人の立場に立ってものを考え、行動できる人間になるためなんだよ。そのためには、“地頭力”や“消えない学力”というものが必要なんだ。ウエル学院はそうした賢くも心優しい生徒を追い求めているんだよ。」
上野氏のただならぬ本心が聞こえてくるような気がします。
“真のエリートとは弱者に寄り添う者をいう。自己本位な秀才は東大には向かぬ”と。
フェミニズムの定義も惚れますね。
「弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想」。
この点についても、これまでの世界の歴史を概観した時、弱者をいたわり、大切にする社会はすべてに人々にも暮らしやすく、民主的な傾向が根強くあります。弱者を尊ぶということは、国民全体の幸せに直結し、民主主義の生命線でもあるのです。
学者としての責務同様、人間としての、親としての責務について考えてみるのもいいですね。
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