ショックでした。悲しみに時を忘れました。
私が一方的に『師』と仰ぐ原田正純氏が、6月に天に召されました。
ご存知の方も多いかと思います。
水俣病患者を支え続けたあの原田先生です。
私の原田先生への思いは、ウエル学院月刊紙『いずみ』(10月号)に記しました。
ブログでは、先生の数ある名著のうち1冊を取り上げます。
少しでも「水俣」に関わったり、勉強をしている人なら、
誰もが熟知している言葉があります。
それは『宝子』(たからご)という素敵な響きをもつ二字熟語です。
ネットで「ユージンスミス」と今すぐ検索してください。
「ユージンスミスの画像」の左から3枚目に親子の入浴シーンがありますね。
この写真がかの有名な『入浴する智子と母』です。
15歳の智子さんは、母良子さんに抱かれて湯船につかっています。
あばら骨が浮き、手と足は硬直しています。
口は閉じられていません。
目も見開いたままです。
そんな智子を母は、マリア様のようなまなざしで見つめています。
アメリカの写真家、ウイリアム・ユージン・スミスの手になるこの写真は、
国内外に発信され、学校の教科書にも使われるなど、
水俣事件を象徴する1枚でした。
スミス氏にもふれておきますと、水俣の実態を写真に収めるだけでなく、
チッソ工場前での座り込みなどにも加わっていました。
1972年の1月、千葉県のチッソ五井工場を訪問した際に、
交渉に来た患者や新聞記者たち約20名が、
会社側の雇った暴力団員に取り囲まれ、暴行を受ける事件が発生します。
スミス氏もカメラを壊されたうえ、脊椎を折られ、
片目失明の重傷を負ってしまいます(ウィキペディアより引用)。
チッソの暴力性と犯罪性は、ゆきつく所を知りません。
智子さんは、原田先生の発見したまさに胎児性水俣病でした。
生後数日後から痙攣が止まりません。
「おかあさん」と発したことも一度もありません。
胎児性の中でも最も重症な患者でした。
私は、良子さんが原田先生と交わした以下の会話が心に焼き付いて離れません。
やや長いですがそのまま引用します。
「わたしが『どうしてあんな写真を撮らせたの』と聞いたことがありました。その時良子さんは『よかじゃなかですか、あれを見た人が、政府の偉か人、会社の偉か人が見て、環境に注意してくれらすなら、この子は世間様のお役にたっとです』と言われました。そして、『それになあ、先生、智子がわたしの食べた魚の水銀を全部吸い取って、一人でからって(背負う)くれたでしょうが。そのためにわたしも、後から生まれたきょうだいたちもみんな元気です。智子はわたしの水銀を全部吸い取って背負ってくれたわが家の恩人です。それになあ、先生、二十四時間智子を抱いていましたでしょう。だから、後から生まれた子どもには何にもしてやれんだったのです(六人の妹弟が生まれたのです)。でも、そのおかげで、子供たちは自分のことは自分でする、お互いに助け合うやさしい子たちに育ってくれました。ほんに智子はわが家の宝子ですたい』と言いました。」
(原田正純『宝子たち―胎児性水俣病に学んで50年』弦書房 2009年)
目頭が熱くなります。どうしたらこのような考え方ができるようになるのでしょうか。
智子はわたしの水銀を全部吸い取ってくれた宝子……。
良子さん、あなたは慈悲そのものです。愛そのものです。
あなたの言葉から、そして智子さんを抱くその姿とまなざしから、
私たちは、子どもを愛する喜びと子がいてくれる感謝の気持ちを
片時も忘れてはならない、あなたはさりげなく教えてくれました。
わが子は宝子です。
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