塾長ブログ

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資本の論理

2016.11.21 塾長ブログ

お母さん方は今の労働環境や待遇にどの程度満足していますか?

ある調査によれば、正規社員の4人に1人が自分の会社はブラックであると回答しています。驚きの数字です。働くお母さん方の自己防衛のためにも、この事件をいっしょに考えていきたいと思います。

電通の女性新入社員(当時24歳)が昨年末に自死し、9月に労災と認められました。今月7日には、厚労省が労働基準法違反の疑いで電通本社などに強制調査に入りました。この事件に対するマスコミ報道の追求は弱腰で、過重労働による過労死ばかりが問題視されています。私が読んだエッセイの中には、「労働時間」というよりも、日本の企業体質に根強く残っている「女性の問題」「女性の尊厳」が本質的な問題ではないか、と指摘するものがありました。まったくもって同感です。男にはなかなか認識できない(しようとしない?)女性ゆえの苦しみが存在していたのです。

彼女はSNSにこう書き残しています(引用のすべては男性上司からの圧力です)。「君の残業時間の20時間は会社にとって無駄」「休日返上で作成した資料をボロクソに言われた、体も心もズタズタ」「女子力がない」「若い女の子だから見返りを要求される」……。

お母さん方もこうした経験は一度や二度ではないと思います。女だからと邪険にされたり、軽く見られたり、あるいは性の対象に扱われたり。彼女の絶望は、過重労働や残業代の不払いだけでなく、いわゆる「モラハラ」と「セクハラ」にあったことは間違いないでしょう。マスコミはこの点についてもっと攻めていくべきです。学歴があっても、仕事ができたとしても、どうしようもない男はどこにもいるものです。女性を貶めることによって、自分のプライドや偉さ加減を誇示してみたり、仕事とは全く無関係である性を持ち込もうとしたり、人間的に成熟していないというか、実に幼い(質の悪い幼さ)ですね。こんなのが上司として威張っているのだから、やりきれません。割り切って関われる人はうらやましいですが、そうでない人はストレスに苦しめられる一方です。

まずは日本の悪しき封建的な文化、例えば「男尊女卑」との言葉に如実に表されている男中心の体質を社会から、政治の世界から、企業から排除していかなければなりません。さらには、上司であるオジさんたちが、基本的人権、男女平等といった日本国憲法の思想を1から学習しなおさなければなりません。憲法改正どころの話ではなく、憲法が社会の中で、生活の中で、企業の中で守られていないのが実態なのです。私の見るところ、憲法改正と唱えている輩ほど、「男尊女卑」的な言動が目立つように思われるのですが、いかがですか?

もう一点指摘しておきます。昨年の12月25日の朝早く、母親に対して「大好きで大切なお母さん。さようなら。ありがとう。仕事も人生もすべてがつらいです。お母さん、自分を責めないでね。最高のお母さんだから」というメールを送り(嗚呼、胸が塞がれて、言葉になりません……)、その数時間後に住んでいた寮の4階から飛び降りて命を絶ちました。彼氏もいるのです。やさしい父親も健在です。その日はクリスマス。

 

実は、11月にうつと診断されていました。おさえておきたいことは、子どもに愛されている母親でさえも、死を思いとどまらせることができなかったという厳然たる事実なのです。理性的な判断ができなくなってしまうのです。「自分が死んだら母親は悲しむ」だとか「近しい人に迷惑をかけてしまう」とか、冷静な思考力が奪われてしまいます。うつの怖さのひとつです。結果論ですが、いち早く会社から引きずり出して、強制的に休養を取らせるべきでした。この死は、電通という企業による殺人に他なりません。

資本主義という経済システムは、自由競争の流れの中で、個人や私企業の利益が保証され、また物質的な豊かさや便利さを与えてくれるものではありますが、一方、名前ぐらいご記憶にあるでしょうか、資本主義を科学的に分析したK.マルクス(1818~1883年)は150年以上も前にこの経済システムの一般法則として、以下のようなことを述べています。「一方の極での富の蓄積は、同時に反対の極での、(中略)貧困、労働苦、奴隷状態、無知、粗暴、道徳的堕落の蓄積なのである。」現在、持てる者と持たざる者の経済格差がますます拡大しています。給与は上がらないのに、企業の内部留保は増えているという矛盾。働く側の貧困と、過重労働は資本主義社会における必然的な現象であることを見抜いています。

時々生徒には話します。「働くということはどんな職業であれ、実に尊いこと。しかし、企業というものは、特にブラックな会社は労働者の利益より会社や株主の利益を最優先する。会社は利益のためなら手段を選ばない。労働者は、時間的にも、肉体的にも、精神的にも酷使される。過労死という“企業による労働者殺し”はいっこうになくならない。これが現代社会で働くことの現実の一端だ。何のために自分は働いているのか、自問自答すべき時期が必ずくるから、その時は立ち止まって、信頼できる人にアドバイスを求めたりしながら、じっくり考えよう」と。生徒たちの社会認識を少しでも深化させていくこと、オジさん塾長の役割のひとつと自覚しています。

あの忌まわしい事件から4ヶ月が経ちました。相模原市の「津久井やまゆり園」に元職員(26歳)が押し入り、重度の知的障がい者19人を刺殺し、26人に重軽傷を負わせました。ヒトラーの優生思想に洗脳されたか何かわかりませんが、「障害者は生きていても無駄」「安楽死させたほうがよい」などと発言をしていました。

あえて冷めた目で見ているわけではないのですが、発言自体はさほど驚くようなものではありません。同様のことを地位ある輩も言っているではありませんか。障がい者施設を訪れた石原慎太郎元都知事は、「ああいう人ってのは人格あるのかね」。麻生太郎も、お年寄りに対し、「いつまで生きているつもりだよ」とおもわず本音を漏らしました。茨城県の教育委員、長谷川智恵子(71)も特別支援学校を視察後に、「妊娠初期にもっと(障がいの有無が)わかるようにできないか。(職員も)すごい人数が従事し、大変な予算だろう」と述べ、非難を受けて辞職しました。政治的な指導者による差別発言ばかりではありません。1996年まで効力を持っていた「優生保護法」にもこんな表現があるのです。「優生上の見地から不良の子孫の出生を防止する」。この法律によって本人の同意を得ず強制的な不妊手術(「優生手術」)が行われていたのです!(わかっているだけで16,500件)。20年前までこんな残酷な仕打ちが、国家の手によってなされていたです。ここでも日本国憲法の基本的人権の理念が蹂躙されているのです。

事件後、マスコミに対して匿名を希望された遺族の方が多数おられました。ある方は「この国には優生思想的な風潮が根強くありますし、すべての命は存在するだけで価値があるということが当たり前ではないので、とても公表することができません」と心情を吐露してくれました。簡潔な文章の中に、実に重要な内容が含まれています。それは「すべての命は存在するだけで価値がある」という崇高な人間観です。何度も何度も反芻すべき思想だと思います。

障がい児教育の関係者でおそらく知らない人はいない先人、糸賀一雄氏(1914~1968年)、「知的障がい者福祉の父」としても有名でしたが、氏の名句「この子らを世の光に」を想起しました。曰く、「精神薄弱児の生まれてきた使命があるとすれば、それは『世の光』となることである。親も社会も気づかず、本人も気づいていないこの宝を、本人の中に発掘して、それをダイヤモンドのようにみがきをかける役割が必要である。そのことの意義に気がついてきたら、親も救われる。社会も浄化される。本人も生きがいを感ずるようになる」。“障がい者に”社会の真ん中にいてもらうのではなく、“障がい者を”社会のど真ん中に据えることで、周りの人間が、そして社会がより寛容さとやさしさを増し、だれにとっても生きやすい世の中になっていく、安直ですが、私はこんなふうに理解しています。

これに対し、先ほどの3人の政治家の人間観はどうでしょう。容疑者同様、「役に立たない人間は無用で、カネがかかるからいなくなれ」ということになりませんか。企業による労働者殺しと全く同じ論理ではないでしょうか。利益のためなら労働者はどうなってもお構いなし。利益が上げられなくなったらお払い箱。同様に、利益を生み出せない障がい者は生きている価値はないし、その存在を認めない、と。まさに、経済の論理、資本の論理が、優生思想に代表される偏狭で残忍な人間観を形作っていると言ってよいでしょう。

塾長という立場から、善人ぶって書き連ねてきました。告白すべきは、私の内なる世界にも優生思想的な発想が存在しているという事実です。「私の」というより「圧倒的多数の」と言い換えてもいいのかもしれませんが、差別や偏見を助長するような性向を持ち合わせていることは確かです。例えば、自分の子が五体満足で生まれてくれば、「障がいがなくてよかった」と安堵します。レストランで食事をしていて、障がいもった子が奇声でも発すれば、嫌悪な気分になります。出生前診断でダウン症と告げられれば、中絶の決断を下すかもしれません。私の中にも内なる優生思想が潜在しています。

では、この内なる優生思想を越えていくにはどうしたらよいのでしょうか。

 

自らも障がいを持ち、様々な運動に関わってきたお二人の女性に耳を傾けます。「大切なのは、障がいのある人とない人が知り合うこと。そして『健康な子を産みなさい』という女性への圧力を減らし、障がいについての偏見のない情報と支援を社会にいきわたらせることです」「偏見や差別は、自分の周りに障がい者がいないこと、障がい者と触れ合う機会がないことから生まれます」。

 

ふり返ってよかったなと思うのは、私の二人の子どもが通っていた幼稚園(糸賀先生の近江学園同様キリスト教系)には、一定以上の数の「つぼみさん」が集まって、健常児とともに毎日を当たり前のように過ごしていました。人工呼吸器を付けた寝たきりの子も通ってくることがありました。障がいをもった子に対して、特別視をしないというか、自然に受け入れる感性を学ばせてもらったような気がしています。幼稚園側の障がい児に対する尊重の念、これが園児たちにナチュラルな形で伝わっていました。園児だけでなく、親である私たちも貴重な学習の機会を与えてもらうことができました。私は好んでつぼみさんボランティアに参加し、子どもだけでなく親御さんの話を伺うこともできました。

2つの事件を資本の論理という視点から取り上げました。社会を知り、置かれた環境についての認識を深めるという作業がいかに大事か、少しでもお伝えできたならばうれしく思います。

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