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配慮的な援助でどの子も成長します

2022.04.18 塾長ブログ

核攻撃をちらつかせるプーチンの恫喝に怒りを覚えると同時に、人間性を欠如した政治指導者の予測不能な行動戦略に恐怖を抱きます。

 

プーチンに倣ってなのか、便乗してなのか、スーパー保守の国会議員から核武装論やアメリカの核を日本に持ち込む核共有論、憲法9条を無きものとする敵基地攻撃論等々、きな臭く危険な言説が出てきて来ました。これでは日本も危ない。

 

日本人として一度は訪れておきたい場所、広島と長崎の平和公園。

修学旅行で多くの高校生が行くようになりました。広島の平和公園内にある有名な慰霊碑。

「安らに眠ってください 過ちは 繰返しませぬから」

 

今こそ、唯一の被爆国である日本は、どんな国よりも率先して核兵器の使用に絶対反対の強き声明を打ち立てなければなりません。核武装だとか敵基地攻撃だとか、まっとうな政治家の発言だとは思えませんね。日本が核を持つようになったなら、ほかの国々も追従するようになるでしょう。核で世界平和など保てるわけがありません。

 

プーチンついでに、生徒たちにはゼレンスキー大統領の国民への呼びかけにも言及しました。

「先生は悩むな。ゼレンスキー大統領の呼びかけには従わないかもしれない。」とのイントロでこんな内容の話をしました。

大統領の呼びかけとは、18歳から60歳までの男子に出国を禁止し、武器を取って防衛戦争に立ち上がれ、というもの。日本的にいえば「赤紙」です。国家のために命を捧げよ、ということです。

 

保護者の皆様、わが子が20歳の男子としたらいかがしますか。送り出せますか。出せませんね。出してはいけません。

 

7人の息子全員を兵隊にとられた‘あのお母さん’の言葉が思い起こされます。

「いまだからいうよ。おまえが、おくにのおやくにたてて、うれしいなんて、ほんとうなものか。せんそうで死なせるために、おまえたちをうんだのではないぞえ。いっしょうけんめい大きくしたのでないぞえ。」

 

名作『おかあさんの木』(大川悦生)のなかでもっとも心ゆすぶられるせりふです。とても短い作品ですので、ぜひ読んでみてください。

 

生徒にも問いかけます。

「大統領の呼びかけに従って、みんなは戦争に行きますか?」

答えは予想通り返ってきます。「いや、逃げます。」

すかさず、わたしは「ピンポーン!正解!」と。

 

わたしの年代で社会運動史なるものをかじったものには、二つのスローガンが心に焼き付いています。

1つは、不滅のスローガン、「教え子を再び戦場に送るな」(1951年 日本教職員組合)。

戦争や当時の軍国主義に無批判に協力し、子どもたちを戦場に送り出してしまったことへの強い悔恨と懺悔の気持ちがこもっています。

 

2つは、作家で、平和活動家の小田実氏(1932~2007年 ベトナム戦争に猛烈に抗議し、テレビ朝日「朝まで生テレビ」でも舌鋒鋭いコメントで有名に)の「殺すな、殺されるな」という単純明快なスローガン。

侵略戦争であろうと、自衛戦争であろうと、正義の戦争であろうと、いち兵士にとってみれば、単なる破壊行動であり、殺し合いであり、拷問であり、レイプであり、それ以外何ものでもありません。

 

スローガンだけでなく、国家と個人(人権)についても疑問を投げかけます。

国家は個人に対して、武器をもって戦うことを強制できるのか?個人は国家のために命を捧げなければならないのか?兵役に対する拒否権はないのか?ウクライナの場合はどうなのか?日本ではどうなのか?

 

学校の社会科ではないのでこれ以上は踏み込みませんが、日本に限って言えば、中学生でもこうした問いに対する解は容易に導き出せます。日本国憲法の前文、第9条及び基本的人権の条項を読ませればよいのです。

 

わたしたちは戦争を忌避し、“逃走”する権利を持っています。

悪政に対して“闘争”しなければなりませんが、命の危機に迫られるようであれば、潔く“逃走”しなければなりません。

いじめや虐待、過労死といった社会問題をもち出すまでもなく、子どもたちには“逃げる勇気”や“闘わない賢さ”を教え込んでおかなければなりません。

 

アジア・太平洋戦争(1941~1945年)の戦没者数は日本だけで、310万人。「お国のため」に罪なき民が殺されました。「お国のため」ならぬ「人のため」に生き切ったモデルが、この1.2週間で2例ほど目に飛び込んできました。

 

『ザ・プロファイラー』(BS放送103 3月31日)で宮沢賢治の特集が放送されました。

そのなかで、母イチの賢治への口癖が「人というものは、人のために何かをしてあげるために生まれてきたのス」というもの。文尾のスがいいですね。心地よく響いてきます。母イチの他人に対する深い思いやりとともに、人生に対するゆるぎない確信を感じさせてくれます。

 

もうひとりは、これまで何回か登場いただいた医師中村哲氏(1946~2019年)。

アフガニスタンで人道支援に尽くしたその軌跡がDVDになりました。「己が何のために生きているかと問うことは徒労である。人は人のために働いて支え合い、人のために死ぬ。そこに生じる喜怒哀楽に翻弄されながらも、結局はそれ以上でもそれ以下でもない」言葉にいっさいの隙も無駄もありません。

 

偶然というか、短期間に全く同じ内容の教えに接するとは。薄っぺらな人生論や、若者たちの「自分探し」「生きがいの創造」などは、実践や行動の伴わない“観念の遊び”としてあしらわれてしまいそうです。お二人の言葉は、観念の世界で浮遊する若者に対して喝を入れるがごとく、現実行動への導きになってくれそうです。わたしなりに代弁するとこんな感じになります。

「個性だの、自分探しだの、やりたいことだの、ぐずぐず言ってないで、とりあえず、たった一人のためで良いから、その人のために行動してみろ!」

 

利他的に生きることの素晴らしさ、先人から教えられるばかりです。

 

さて、話題を変えます。あるお母さんからこんなお便りをいただきました。一部を引用させていただきます。

 

「先日は○○に対して毅然としたご対応をして下さり本当にありがとうございます。本来なら親のわたしたちが厳しく対応すべきでしたが、つい甘やかせてしまいました。先生に預かっていただいてから、〇〇とよく話し合いました。今までの自分の行動など。それを考えたうえに、これから自分はどうすべきなど。はじめのうちは「なんでー」とぼやいていましたが、話し合いを重ね、スマホと離れてみて、改めてスマホに依存していた自分に気づいたようで、次第に前向きな話し合いに展開していくようになりました。……昨今、本当にいろいろな塾ができていますが、先生のように本当に子どものことを考え、厳しくも愛情をもって見てくださるのはありがたいです。本当に感謝としか言えません。人間形成の大切な時期に子どもたちがウエルで育てていただけてよかったです。……」

 

照れ臭く、お恥ずかしい限りなのですが、まずはお便りありがとうございます。

わたしたちが注目すべきは、このお母さんの「弁証法」です。「無知の知」で知られる古代ギリシャの哲学者・ソクラテスは、会話の相手に問いや具体例を提示しながら、より高度な思考にまで到達させ、自身に真理を発見させる問答法(弁証法)を完成させました。

 

一度や二度の叱責や話し合いではなく、「話し合いを重ね」るなかで、本人自身に気づきが芽生えたのです。より「前向きな話し合い」へと発展したのです。これが教育的真理と呼ぶにふさわしい大人側のあるべき対応なのです。子どもは言っても効かない、ならば「言う」ではなく「話し合う」のです。親側に賢さと根気が求められてきますね。

 

宿題忘れの多い子がいます。教材や連絡帳、筆記具などバッグに入れ忘れる子がいます。なかなか遅刻がなおらない子がいます。

 

性格的、個性的な面での問題であったりもしますが、なにより、訓練不足というとらえかたがおすすめです。

子どもの欠点や弱点は、トレーニングが足りていないだけです。親が配慮的にトレーニングの援助をしてあげることが一番です。

 

ただただ子どもを責めて愚痴で終わらせるよりも。

手取り足取りの過保護的援助ではなく、配慮的な援助でどんな子も成長していくものです。

 

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