墨田区 東向島 学習塾 ウエル学院平野進学教室からのお便りです。
塾は言葉を媒介して成り立っている場、とみることもできます。
わたしの発する言葉で、また書き言葉でどれほどの生徒や保護者の方を直接にも間接にも傷つけてきたか。いつもこころから離れることのない反省です。
言葉はその当て方やネイミングひとつで、本質を隠ぺいすることができます。
今回はこのことについてふれてみたいと思います。
先週(9/11)の朝日新聞の1面の見出しです。
『「心中」の使用取りやめ 「保護者の自殺伴う子の虐待死」に』 (国の専門委員会)
わたしはすでに数年前のブログにおいて、「親と子の心中」という表現は適当ではない。「親の自死に伴う子殺し」と表記せよ、と訴えました。
親といえども、たとえどんな辛く苦しい事情があったとしても、子どもを殺す権利はないし、子どもの未来を奪うことなど許されるものではありません。親がいなくとも子どもは幸福になることはできます。
「虐待死」ということばも、わたしからすると本質から目をそらすような軽率な言葉だと考えています。「虐待死」とは「殺人」そのものです。
本質を隠すたくさんの用語が見うけられます。
歴史学から見て、日本のアジアへの「進出」ではなく、あきらかに「侵略」です。
「南京事件」などではなく、日本軍による「南京大虐殺」です。
「終戦記念日」ではなく、「敗戦記念日」です。
「死刑」ではなく、「国家による殺人」です。
「原爆」ではなく、「人類絶滅装置体系」です。
「裏金議員」ではなく、「脱税・詐欺師議員」です。
きりがありません。
言葉は、まさしく「思想」を表現する道具ともなりえます。
アメリカは広島に落とした原爆を「リトル ボーイ」(ちびっ子)、長崎は「ファット マン」(でぶっちょ)と名付けました。
まさしく原爆の残虐性を隠ぺいするためのネイミングです。あるいは日本人の生命を軽視する当時のアメリカ社会に蔓延していた思想そのものです。
何度もブログに登場していただいた美輪明宏氏(6月20日逝去)は、喝破しました。
「戦争って言葉をなくせばいいんですよ。『大量殺人』でいいんです」
高市政権は、『大量殺人』を犯すトランプに何ひとつ批判もできず、ただただ追従しているだけ。間接的に大量殺人を認めているのです。
子どもたちには、言葉は人を殺傷する道具にもなり、また使い方によれば人をあわれみ、平和への礎にもなることを伝えつづけていきたい。
本日もお読みいただきありがとうございます。
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